留学中に元小学校教師が起業した話

日本で小学校の教師をしていました。日本教育の闇に気づき、今は退職して、オーストラリアで会社を立ち上げました。教員を育てたり、子どもたちに多様な価値観の教育をしています。海外に出て感じた、日本教育の矛盾点。現場で感じてきた違和感。そして体罰などで明るみになってきた教育現場の閉鎖感。全ての真実を公開していきます。僕たちはあくまでも、個性や創造性を潰されている子どもたちを救いたい。激務で多忙な生活を送って頑張っている先生たちを救いたい。子どものことを第一に考え、負担なく安心して仕事に行ける保護者を助けたい。そん

海外で1人奮闘する「元教師」のノンフィクション小説 「張り巡らされた伏線、そしてラスト章の衝撃」最終章までしっかりとお読みください。

 第1章「センセー!! 」

 「お疲れ様です。センセー」

 「センセー、 今日はお時間空いていますか」

 もう呼ばれることのなかった、この呼び名。「センセー」

そう。僕はまだ先生をやれている!

 2018年から遡ること3年前。俺は1人オーストラリアにいた。小学校教師という職を捨ててまでなし得たい夢が見つかった。そしてそれには仲間が必要だった。

「仲間、10人は欲しいなぁ」

 どこかで聞いたセリフだがまあ良しとしよう。

僕は6年間、教育現場で指導してきた。管理職の堕落や先輩教師の不祥事、不倫、児童わいせつ行為。腐る程の汚職を見てきた。そんな中での、子どもの教育。自分なりに夢や誇りをそして、使命感を持って職務を全うしてきた。そう、あの事件が起きるまでは......。

 オーストラリアに来た最初の1ヶ月は、荒れに荒れた。仕事からの解放感、教師という名を捨てたことへの自由感、見たこと、感じたことのない溢れる好奇心。全てが新鮮だった。どこか懐かしいこの感じ。そうだ、小さい時によく感じていた、とてつもない高揚感!湧き出る期待感!根拠もないのに何かできる気がしていた。

 ただ漠然とそう思うも、日に日に焦りが出てきていた。学校へは元々マジメに行くタイプではなかったので(前職は教師をやっていたが、学生時代編は後ほど)語学学校の卒業も危うかった。たまに学校に行っては、ふける。学校に行っても仲の良い友達はいない。高校時代と何ら変わらない学生生活を送った。

 卒業間近の2週間前。久しぶりに語学学校へ行くことにした。なんて事のない、ただたまにわ行かなくてはって思いで行っただけだった。もちろん学校の友達はいないので、いつも通り学校をふける。帰り途中のキングジョージスクエアで一服する。ここで一服しながら人間観察をするのが俺の暇つぶしだった。

「あれ? 君さ、同じ語学学校の子じゃない」

「こんな時間にこんなところで学校サボってんでしょ」

 ある1人の日本人が話しかけてきた。そして俺はこう答えた。

「ははは、学校つまんねぇじゃん。あそこ(学校)で学ぶことは何もないよ」

「俺も同じ感じ。学校ってつまんないよな」

 彼は俺の隣に腰を下ろし、温かいベンチの石の上に座った。お互い自己紹介する程度でその場は解散し、その後、彼とキングジョージスクエアで会うことはもう無かった。

 これが運命の出会い第1章である。

 


 語学学校卒業の日。俺は卒業証書を受け取りに学校へ来ていた。久しぶりに会う同級生たち。今後は、ファームに行くとか、もう日本に帰るとか、別れを惜しんでみんなで楽しく盛り上がっていた。俺もそこには加わり、3ヶ月のオーストラリア生活を振り返っていた。

 そこに学校から自分宛に一通のメールが届いた。

(......嫌な予感がする。こんな時に学校から?)

その不安は的中した。出席率が悪くて、卒業できなかったのだ。メールの内容は「出席率が足りないため、あなたは卒業できません。追加の補習を受けるか、授業を再度、受講してください」というものだった。俺はケータイの画面を見ながら語学学校を飛び出した。

 (やばい。3ヶ月間、俺は何をしていたんだ。小学校教師という職を捨ててまで、オーストラリアへ来たのに何をやっているんだ。)そんな思いを自分に問いかけ、誰にも告げることなく、俺はその場から消えた。

 語学学校卒業(していれば)から2週間が経った。何か新しいことをとアルバイトを始めた。どうしようもないただのジャパレス。いるのは若い男の子と日本でうまく適応できなかったような日本人。ネイティブなカフェなんて働けるわけない。仕事を始めて痛感した。自分の英語のスキルの無さと、前職で教員だったというステータス。またしても虚無感。俺は一体オーストラリアでなにをやっているんだろうと感じた。

 ただそこにも運命の出会いは転がっていた。同期でたまたまバイトに入ったバロ君(26歳)だ。家もまさかの目の前で、趣味も合い、すぐに意気投合した。そこからの出会いの展開が激しさを増して行く。同じ趣味を持った仲間が実はバイト先、そしてバロ君の家にもいたのである。18歳のタクヤ君とも仲良くなり、バロ君と3人でバイト終わりに家にたまったり、お酒を飲んだり、同じ趣味に没頭したり、旅行に出かけたり、あっという間に楽しい日々は過ぎた。少しオーストラリア生活を楽しんできたように感じていた。

 そして新しい事を2つ始めた。「英語指導者資格の取得」と「現地の子どもへの日本語指導」である。渡豪当時からインターネットの掲示板に挙げていた「日本語指導、元教師が行います」にやっと食いついた保護者からの依頼で日本語指導も始めたのである。その初となる生徒。4歳児のハーフ。「もみかちゃん」その子が運命の出会い第2章である。

 週に一回のレッスンだが充実感がとてつもなくあった。オーストラリアに来て初めて、自己肯定感を得られたのがこの時かも知れない。そしてこれが功を成して、保護者の紹介もあり生徒が一気に4人になったのである。

「センセー!おはよう。こんにちは」

「できたよ!センセー」

 センセーという呼び名が復活したのはこの時からである。

 英語指導者資格取得の学校にも大きな出会い2つがあった。この出会いこそが現在、会社の代表取締役として活動することになる我が会社の創立に大きく関係することとなる人物であった。

 英語指導者育成学校初日。いきなりの遅刻で、1番後ろの席に遅れて着席した。

「こんにちは。意外と真面目なんだね。こんなところに来てるなんて」

隣の席にいた男が話をかけてきた。

顔を見るとなんと、いつかキングジョージスクエアで出会った、あの彼だった。

「え?お前こそなんでこここいるんだよ。英語の先生になりたいのか?」

話は盛り上がり、お互いのこれまでを一気に話した。学校にいる時間だけでは足りないので、授業後も近くの公園で語り合った。今までの教育現場での経験や思っていること。これからの自分のしたいこと。全てをぶつけた。教育関係で働いていない教育の素人の彼。どの人に話しても通じる事のなかった夢の計画。「無理だよ」「頑張ってね」「凄いね」どの人もそう言う。いつも僕の夢をばかにしているように感じていた。だが彼は違った。

「おもしろそうじゃん。俺も混ぜてよ、2人で日本の価値観ひっくり返そうぜ!」

「ゆうちゃん、頭いかれてるでしょ?」

「けんちゃん、それは君もでしょ」

 そんなこんなで月日は流れ、無事に英語指導者の資格も2人とも取ることができた。そこでの経験がのちに大きなつながりとなることにまだ2人は気づいていなかった。

英語指導者を育成するというのを柱に2人の会社を立ち上げた。名前は2人の頭文字を取り「Y&K」とした。

「Yが先でいいのか?お前がボスだろ?

「いいんだ。Yが先で! KYよりYKの方が響きいいだろ?」

「まあ確かに、ボスのお前がそれでいいならいいけどさ」

(うん。いいさ。だって俺は......)

この英語指導者育成の業務が、今後の日本教育史をひっくり返す火種となることを薄々と感じていたのかも知れない。僕はこの資格を無償で沢山の人に進めることにした。

 英語指導者育成のかたわら、絶対に手を抜かなかったことがある。それは子どもへの日本語指導だ。時給10ドルという破格の値段で、週1回だけ。ジャパレスがどんなに忙しくなって週に70時間という勤務を課されても。バイトの2時間の休み時間には自転車で30分かけて生徒の家に向かい、1時間のレッスンを行い、30分かけてバイトに戻る。そんな暮らしも行なっていた。

 英語指導者育成と日本語指導、バイトに友達との付き合い。オーストラリアに来て半年後には充実した生活が展開された。その頃には、子どもに日本語を教えている元教師の面白い人がいる、という噂が流れ出るほどになった。

「センセー!今日も会いに来たよ!」

「今日も家に行っていいですか?」

この頃から、子どもだけではなく、20代30代の周りの友だちも俺のことを「センセー」そう呼ぶようになった。

 とある日。英語指導者資格取得の紹介をした女の子から食事に誘われた。無事に卒業できたらしく、そこの人たちと飲むから来ないかと。そこでも運命の出会い第3章があった。

飲み会の場でたまたま趣味が同じだったことで、話が盛り上がり、普段話さない自分の夢について簡単に語った。酔っていたからどこまで話したか覚えていないし、相手がどんな反応だったかかも覚えていない。時間にしたら5分とかそんなもんだった思う。ただこの出会いがまたしても僕の会社に大きく影響することになるとは誰も気づいていなかった。彼女は英語指導者の資格を取り、来月には日本に帰るそうだ。簡単な挨拶を交わしてその場は解散した。

 オーストラリアへ来て1年が経とうした。オーストラリアで仲良くなった友だちは次々と帰国していく。日本という洗脳国家に。ビザがないから、こっちにいてもずっとは居られないから。日本で早く就職しないと年齢的に再就職が辛い。そんなことを言ってみんな帰って行った。出会った人の99パーセントが帰ってしまった。バロ君もタクヤ君もゆう君も。そう、あの頃、共に夢を見て笑った友達が誰もいなくなったのである。1人になった。俺はセカンドビザを取得していないので帰国しなくてはいけない。俺の海外生活の1年は頑張ったもんだ。英語指導者の資格も取ったし、前職の経験を活かして、子どもに日本語も教えられたし、そう言って、自分の肯定感を高めるしかなかった。

 帰国が1ヶ月前に迫ったある日。今までお世話になった人たちにお別れの挨拶をしに回った。卒業できなかった語学学校、運命の出会いがあった英語指導者の学校、たくさんの友達ができたバイト先。日本語を教えている子どもたちの保護者。挨拶にまわりながら1年間十分に頑張ったと言い聞かせる。もう残れない。仕方ない。ビザがないのならどうしようもない。

 ところが挨拶に行くとそんな思いをかき消す言葉を沢山もらったのである。

保護者からは

「もし、先生がもっとオーストラリアに残れるのなら、いつまでも子どもに日本語を教えて欲しい」

英語指導者の学校からは

「うちの会社と専属契約して、英語指導者育成の営業と広告をやってくれないか」

というありがたい言葉をいただいたのである。自分の居場所を見つけた瞬間であった。

(絶対にここに残りたい、なんとしてもこのチャンスを逃してはダメだ!)

希望が湧いた。直感で感じた僕は、すぐさま噂で流れていたビザ取り学校の存在を調べた。「出席は週に1回でいい」「バイトは週に20時間までならしても良い」「個人事業主ならその制限はない」「学費は分割払いもできる」などなど自分の知らない情報が沢山出て来たのである。無数にある留学エージェント、語学学校、全て自ら周り、噂の真相を調査。そして1つの答えにたどり着いたのである。「ビザ取り学校は存在する」ビザ取り学校とは響きが悪いので訂正させてもらうが、この学校はオーストラリアでは歴史のある大手の学校であった。別に違法な学校ではない。午前中から夕方までは普通の学校だ。仕事が忙しくて中々学校に通えない人のためのクラス。週1回のペースで出席であとはオンラインのテストのみ。これを俗にいうビザ取り学校だと知った。

 これなら子どもに日本語指導をしながら、英語指導者の育成業務もできる。バイトだって続けられると確信に変わり、その学校に入ることになる。その学校はくしくも自分が卒業できなかったあの学校であった。一年後にまた生徒として舞い戻ったのである。この学校の生徒になったのも大きな運命の分かれ道になったとはまだ誰も気づいていなかった。

 本格的に業務を開始するために「Y&K」を会社として立ち上げ、日本でも個人事業主登録をしたのが2016年の夏である。オーストラリアへ来てちょうど1年。新たな伝説の始まりであった。